2008年9月アーカイブ

赤めだか

今朝、めざましテレビで立川談春さんが密着&インタビューを受けていた。 エッセイ『赤めだか』が大絶賛されているためらしい。

僕もfunkaくんの薦めを受けて購入、すぐに読み終えている。人と人が繋がりあう話し。感動の涙と笑いに包んでくれる素敵な言葉の連続だった。

いろんな形の繋がりかたがある。形の違いは着地点の違い。向き合った相手との触れあいから『そうだね』と終わらせる場所が変わる。着地点に違いがでるから、次の『やあ』も違いがでる。

いずれにせよ『そうだね』で握手するんだな。そういう人、どれだけいてくれるんだろう。

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赤めだか
立川 談春

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久々にエイミのライブに行けた。ずっと誘ってくれたのにごめんね。ほっとする時間をありがとう。

その日のメインアクトであるエリさん。元ラヴ・タンバリンズのあの方。ライブ中盤に彼女は言った言葉に心が反応した。以下にmixiに書いた日記をコピペする。

ならば僕は…
敢えてあなたにNo!と言おう。強烈にそう感じたライブだった。

あのパーソナルが出力しているものが何かは認識できるし、共鳴するもの達が存在する所以も理解できるつもりだ。

しかし、少なくとも僕には違和感しか感じられなかった。そして、あの嫌な思考が働く「こいつらはまだここか」と…。まるで上から目線のようで本当に嫌なのだけど、やはり『大前提レベル』にしか映らない。

僕はここには居られない…『じゃあ、どうしようか』の課題は、まだとうぶん続くのだな。

…近年、自分のものさしの成長が止まっていて同じ苦しみを抱え続けている その、やつあたりでしかない、最悪な日記でした。

翌日の日記はエイミのリクエストに応えて w。

彼女は「No!と言え」とアジった。あの曲を例にだして、そうぶつけてきた。

(ちなみに僕にとっての彼女は、上京のタイミング的にも、まさにその曲と、その前のヒットシングルでしかなかったりする)

必要な表現だと思う。彼女もまた「なんか変だ」「そうじゃねぇだろう」を背負っているのは確かだ。

僕が違和感を感じた理由は、まずひとつに単純な方向の違いがあった。彼女は始めることが重要だと力説し、スタートラインに立てと煽った。

僕にとってはそんなの当たり前なのだ。至らないかもしれないが実践もしている。そんな人間が次に抱えるのは終わりの始まりをどこにするかだ。達成しての終着だったり、妥協してとりあえずの着地点だったり…。立川流家元で言えば『思考ストップ』をどこにするか…。これが尋常じゃなく難しい。毎日これに苦しめられている。だってさ、例えば「達成」ってなによ?

しかし、ここにいる人達は開始点の話しで盛り上がっている。僕は耐えるしかなかった。

「No!」は始まりにはなるけれど終わりにはなれない。互いが「そうだね」と言えなければ終われない。それとも常に自分が正しいとして相手を屈服させ続けるのか。そんなのはイヤだ。曖昧な心をもった人間同士が触れ合うのだ。やっぱり「そうだね」って言ってあげたいし言ってもらいたいよ。

彼女は行動しろとアジり、それにファンは共鳴していた。果たして彼らはどこにいるのだろうと思った。やもすれば、かなり危険だと思った。

行動の前には決断が必要。決断の前には思考が必要。思考するためには認識することが必要。認識するきっかけはなんでもいい。偶然気づくでもいい。「知る>考える>決める>動く>動くことでまた知る>〜〜〜」の繰り返し。

「動け」と言われた彼らはどこにいるのだろう。動く前に必要なものをじゅうぶんに準備できているのか。ただ雰囲気で「Yeah!!!」と言ってるだけなのか?雰囲気の波に乗っているだけの彼らに対して、彼女はそれでも愛をふりまくのか。彼らが彼女を盲目的に信じるように、彼女も彼らを信じるのか。気づけない馬鹿なのか。気づいて道化を演じているのか…。

彼女がもし「行動こそがすべて」の人だったとする。表現者なのだからそれでもかまわない。しかし、乗っかる奴らが、今後、前準備が不十分なまま「No!」で行動開始してしまったとする。準備不足の行動にどれだけの説得力と責任感があるというのか。それに、そんな彼らに彼女は終わりを提示できるのか。

彼らのような人が存在することはちゃんと認識しているし理由もわかるつもり。『私たちはこうなんです』「あなたはそうなんですね。では互いの着地点の話しをしましょう」と言える。じゃあ彼らは僕のような存在を認識したときどうするだろうか。準備万端に動いた人ならまだしも、準備不足の人が『そうだね』なんて言えるとは思えない。『違うよ馬鹿!』と屈服させるか排除するのではないか。

…なんてのは所詮、僕の物差しで測ってでてくる言葉でしかない。僕の物差しは僕の過去でできている。僕の知っていることでできている。それでしかない。人間が認識できることなんてたかが知れている。すべての人が持つ物差しは欠陥品だ。欠陥品を押し付ける行為は、常識としてできるかぎり避けたい。時には間違いを犯したり、人によってはイリュージョンに支配されることもあるだろう。それは仕方ない。でもそこすら開き直るのではなくてちゃんと省みて謝罪する。

互いの物差しを突き合わせ単位変換作業をする。終わりの始まりを心がける。どうしても理解できなかったときは己の物差しの性能をこそ攻め、すこしでもチューンアップを目指す。どんな苦しみも、相手を責めて相手を変えさせることよりも、自分を見つめてまず自分ができることを深く考える。

『No!』とアジったあとに、『Love』だと身内で慰めあわれてもね。終着点を示さない人にそんなこと言われたくないよ。

いまの僕の物差しは、だいたいここまでが限界。毎日が苦しい。根っこが見えることなんて稀で、ただ漠然と暗い渦が身体を支配している。

それをなんとかしたい。チューンアップに必要な新しい言葉が欲しい。心の大革命が起きてほしい。しかし、狭い人脈で会話をしていても相手の言葉は、すべて過去に対応してきたことばかり。そしていつもこれで終わる。「つじさんの言うとおりだよ」「ごもっともです」「私たちはまだそこまで行けてないから」…苦しい。僕は自分をこれでヨシとはしていないのに、苦痛でたまらないのに、誰も新しい言葉をくれない。「知る」ことができないから考えることも決めることも行動することもできずにいる。

立川流家元の言葉にはいちいち共感する。『人間はどっかおかしいから〜』で考え始める人であり、考えた結果『人間はどこかおかしい』と結論している人ではない。大前提が共感できる人は貴重な存在だ。でも、彼は天才的な表現者。彼の『じゃあ、どうしようか』は家元だから許されるものが多い気がする。「思考ストップ」「壁があったら戻る。乗り越えようとする行為が人を世界をだめにする」それはいいだろう。しかし彼の最終着地点は居残り佐平次よろしく「人生成り行き」なのだ。それは家元だから許されるんだよ。凡人の僕はそれでは生きていけない。食べることができなくなってしまう。

僕のいまの着地点。はやく終わってくんねぇかな。この命。そこで終わらせている自分を批判する自分もいる。家元じゃあるまいし。

なんだかねぇ。

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